2011年5月11日水曜日

日本論が止まらない ― 書評:日本辺境論

自分も周囲も「日本人とは」式の議論が大好きだよなと思ったら。

私たちが日本文化とは何か、日本人とはどういう集団なのかについての洞察を組織的に失念するのは、日本文化論に「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰することこそが日本人の宿命だからです。

日本辺境論 (新潮新書)
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内田 樹
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どうしても、世界標準を後追いしてしまう、世界ではと上段から来られると従わなきゃいけない気がする、そのくせ自分が標準を作る段になると自動的に思考停止、折に触れては日本文化が何だったか気になってしまうし、外国人が褒めてくれると妙に嬉しい。これが日本という確固たる形はないが、外来のものを常に後追いでアップデートしていく変化の仕方には一貫したパターンがある。私たち日本人のメンタリティを良くも悪くも辺境性と喝破するトンデモすれすれの内田節。

前半は思想史的な整理で、後半は著者の武道経験に根差した「学び」論。前半の方がスラスラ読めて楽しめたが、含蓄に溢れていたのは後半である。なぜ「学び」の話なのか。日本人論に「学び」を接合したところに最大のオリジナリティを感じた。(著者の時間的順序は逆で「学び」に日本人論を接合してできたのが本書のはずだが)

メノンのパラドクスと呼ばれる有名な詭弁がある。知っているものは知る必要が無いし、知らないものは知る必要を認識できない、よって人間は既に知っているものしか知ることができないというものだ。詭弁なのは間違いないが、ギリシア時代から哲学者達を悩ましてきた問題で、レヴィ・ストロースがブリコラージュとマイケル・ポランニーの暗黙知までは誰も正面から向き合わなかった。

著者は実に武道家らしい身体感覚でこの問題に答えている。「学び」の回路を作動させるようなスイッチがあり、ONにすれば学習の効率が劇的に上がる。しかもそれは辺境性が優位に立つ部分だと著者は主張し、辺境性を恥じることなく、むしろその優位を活かしていこうと述べる。

本書に関連して小飼弾さんの書評は興味深かった。
小飼さんは「文明の辺境」でなく「文明の終端」であったなら本書に納得できるとして次のように言う。

404 Blog Not Found:s/辺境/終端/g - #書評_ - 日本辺境論
私は、辺境人であるが終端人ではない。だから「日本人」ではない。そしてこの国は実のところ「終端人でない辺境人」を厚遇してくれる。それもまた終端人の特長である。これが辺境人であれば、「身内」以外の辺境人というのは「外敵」なのだから。

著者の辺境は中華-辺境という場合のそれだが、こちらはフロンティア、ならず者が闊歩し明日がどうなるやも知れぬサバイバル荒野を指すそれだ。バカにしてくれるなと言っている。いや、小飼さんは怒っていないだろう。ただ、ドライな疎外感を告白しているように読んだ。

一方で著者も、「私たち日本人は」という言辞を用いながら、半分くらいは「私」を除外している。方向としては外から内である。そうでなければ、このような本は書けないのだ。

日本ネイティブのフロンティア人と辺境人。
プロトコルを超越してしまったがゆえの疎外。
プロトコルそのものに由来する疎外と融合。
大人たちのヒーリングなのだろうと思う。

さて他人事ではないんだ。
私たち日本人はと書いている私自身はどうなのか。
それが知りたくてこれを書いている。


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内田先生 < こちらも止まりません。

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