2011年5月12日木曜日

地動説ってどうなのよ

ガリレオのことを考えていました。

ガリレオと言えば福山雅治の主演したドラマが記憶に新しい。白衣でイケメンでちょっと変わった天才科学者「変人ガリレオ」が、ほんのちょっとした手がかりから驚くような推理を見せ事件を解決してしまうドラマ。独り言をブツブツ言いながら黒板に数式を書き殴り、数式を解くように犯人のトリックを見破ってしまう。「全ての事象には理由がある」という信念と隠れた下心がガリレオを事件解決へと駆り立てる!さぁて、はたして変人ガリレオはその天才的頭脳で恋のパズルを解くことができるのか!?



っと、まあこんな感じの話でしたね。研究者に対する世間の妄想の凄まじさが出ています。数式ってサラサラ扱えるとカッコいいよねっていう雰囲気だけで、実際には数式でものを考える人間はいません。森博嗣の描く犀川先生にしてもそうだし、ああいうキャラクターに対する萌えがあるのは理解できますが、大学の研究室に暮らしてる人間からすると、どうか真に受けないでくれと願うばかりです。

余談はこれくらいに。考えていたのは本家本元のイタリア人科学者ガリレオ・ガリレイのことです。

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本家のガリレオと言えば、ピサの斜塔からボールを落とす実験をした人、望遠鏡で星ばかり眺めて木星に3つの衛星を発見した人物として知られています。再現可能な実験から数学的法則性を導き出すという手法を生み出した点では、今日における科学の父と言うべき人物です。

或いは、時のキリスト教権力に抗って地動説を唱えた人物として有名ですね。「それではお主、神が創りたもうた地球が太陽のまわりをまわってると申すか、ええい不届きな奴!」と裁判で脅されて、「それでも地球は回っている」と答えたという話が、ある種の美談として教科書にも載っていたように記憶しています。

天動説と地動説。地球が太陽の周りを回っていることが常識である今日では、地動説を唱えたガリレオが正しくて、天動説に拘泥したローマ教会は因習に囚われた無知蒙昧な世界の代表者、というのが教科書的な正解ではあります。

ところが、地動説を唱えたというだけのことであれば、実はガリレオが最初の人間というわけではありません。たとえば古代ギリシャではアナクサゴラスという学者が地動説でしたし、ガリレイの少し前にはコペルニクスやケプラーという偉大な学者がいました。また惑星の運行に力学的な説明を与えて実際に天動説を葬ったのはニュートンの慣性の概念でした。

それなのにガリレオの名前だけが地動説とセットで記憶されるのはなぜでしょうか?

それは、ガリレオが天動説の教会権力と闘ったからではないかと私は考えています。

我々が住んでいる大地は平らで世界の果ては崖になっていて、そこから海は滝になって落ちていく、太陽やら月やら諸々の天体はこの周りを回っているのだというのが中世キリスト教の世界観だったとされています。当然、教会は自らこれを信じるだけでなく、普通の庶民にもこれを信じるように要求していました。曲がりなりにも庶民がこのアイディアを受け入れるということで、教会の権威というのは成り立っていました。

ガリレオは、これが嘘だと文字にして出版したわけですから、権力側からは危険分子と見られたに違いありません。原子力がエコで経済的ということにして国策で推進しているところに、エコでも経済的でもないと言ってまわるようなものですね。ガリレオは虎の尾を踏んでしまったわけです。

この物語が現代にまで語り継がれているのは、ガリレオの姿勢が人間として美しいからというのが理由の1つでしょう。権力の脅しに屈せずに自分の観察結果が帰結する地動説を貫いたというのは立派な態度です。

ただ、それだけではないはずです。理由のもう1つは、その後に訪れた科学と啓蒙の時代にとって、ガリレオのエピソードが都合のよい神話だったからだろうと思います。教会権力が支配した西洋中世は暗黒の時代で、ルネッサンス以降は人間理性が導く輝かしい時代である、というのが伝統的な西洋史の描き方ですが、天動説から地動説への転換というのはこの歴史観とセットになったある種のイデオロギーです。

理性と科学への希望は産業革命と世界大戦と諸々のイデオロギー対立を経ても生き残りました。20世紀の後半にもなると理性を云々する哲学者はほとんどいなくなりましたが、その分は科学の妄信に姿を変えています。ほんの数十年前まで、科学が明るい未来をもたらすことを無邪気に信じられた時代があったそうです。微笑ましいですね。

「科学と啓蒙の時代」なんて曖昧な言い方をしてはいけませんね。それは、今日世界を覆っている西洋文明そのものであり、1980年代生れの日本人である私もその一部です。だから、私の高校の教科書にはガリレオのエピソードが神話として挿入されていたのだと理解しています。

さて、私たちがなんとなく正しそうに思ってる地動説ですが、天動説よりも正しいというのは誤りです。運動は相対的なものであり、運動を記述するには起点と座標系を設定せねばなりません。また異なった座標系で記述された運動は互いに変換可能です。つまり地球が動いているか、太陽が動いているかは、座標系の設定によるというのが科学の正解です。

地動説と矛盾するようですが、ガリレオは運動の相対性を最初に研究した人でもありました。ある運動を別の座標系の記述に変換する操作にはガリレイ変換の名前が残っています。

裁判ではこれが仇になりました。運動は相対的だから地球が中心だとは言えないというガリレオの主張に対して、裁判長のベルラルミーノは、運動が相対的ならば太陽が中心だとも言えないではないかとロジカルに切り返してガリレオを黙らせたとか。より客観的に喋っているのは異端審問官の側であるというところにちょっと不思議なトリップ感を覚えました。

運動の相対性を研究した人物が地動説を主張するのはどこか矛盾して感じられます。可能な合理的解釈は、ガリレオの地動説は学術的な見地から提出されたものではなく、政治的な言ってみれば権力への反抗だったというものです。そうすると、地動説が科学とセットのイデオロギーになったということもすんなり理解できる気がします。

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やっぱり漫画がわかりやすい

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