2011年5月23日月曜日

ヒストリーを語れない―書評:『なぜ日本人は日本をあいせないのか』

日本論が止まらないのとニコイチの話。

日本人の「シカタガナイ」の哲学と、日本人の被害者意識は、いずれも、社会によって決定された生活環境を人間にはコントロールできない何かとみなす、この根深い「有機体」イメージと関係しあっている。日本人の集合意識から消し去られるべき数々の誤ったイメージの中でも、これは、単独では最も罪の重いものである
なぜ日本人は日本を愛せないのか―この不幸な国の行方
カレル ヴァン・ウォルフレン
毎日新聞社
売り上げランキング: 39137


歴史が創作であることはウォルフレンの同意をまつまでもなく周知の事実。創作でありながら、それが自分あるいは私たちの依って立つところを問う叙述であるところに歴史のたるや所以がある。何がどんな原因で起きたか、何が重要で、何が重要でないのか、自分の身に起こったこれらの事象とその連関を整理することが歴史という営為の本質である。だから歴史とはすなわち自己認識であるし、それは明日の決定をより正しいものとするための基盤となる。

このような意味での歴史(というか"history"だな)が欠けていることが、日本人が日本を愛せない最大の理由だとウォルフレンは主張する。

うん、半分までは間違いなく当たっている"history"としての歴史は、僕らの暮らす日本にまったく欠けている。

過去に関する記述は、それはあるにはある。しかし、それらは過去にあったとされることを、今を生きる僕たちが、自分の問題として受け止め理解し、できるなら至らなかったところを修正するという形では役に立っていない。逆に、臭いものにはフタを式に、たとえば南京大虐殺やら広島・長崎の原爆やらと、現在の僕たちを切り離すための道具になっているわけだ。

ことさら太平洋戦争について言えば、左右どちらを問わず、結局はフタをする以外のことはやっていない。平和憲法を愛する人たちは国民が戦争で苦しい思いをしたことや原爆が落とされたことを言って被害者面して平和平和と呪文のように唱えるだけ。日本という国のかたちに対する考察も反省も抜きに、さらには日米安保のことだけはすっぽりと頭から消し去ってとにかく戦争はダメだと言う。アホこけ、そんなお祈りだけで戦争やら経済危機が避けられたら誰も死なないっつー話でさ。丸山眞男が侮蔑を込めて「悔恨共同体」と呼んだ人たち。

悔恨共同体、たとえば大江健三郎のようなアレは、日本がダメだと否定すること以外の何をも提出しなかったから、そのあんまりにもいいとこのない日本観に嫌気が差す人も出てくる。というわけで、90年代からは、思想界は右傾化した。藤岡信勝のような人が出てきて、南京大虐殺はなかった、従軍慰安婦は同意の上で実施されたので強制ではない、さらには大東亜共栄圏を美化する言説などがゴロゴロと出てきた。

当時、小林よしのりなどは語り口が爽快で僕もそれなりにはまっていた時期があったのを憶えている。日本を美化すると、自分を肯定できる気がして、とりあえず気持ちが良かったのだ。だが、そんな怪しげなものにハマっていたのは頭でっかちで自我の弱いごく一部のハナタレで、大部分の若者は、そういうことは考えないようにしていたと思う。

考えるのをやめて社会的義務を黙々と果たすか、日本という国体に過剰に同一化してみるか。これこそウォルフレンが全力でツッコミを入れた状況。

この状況のまずさは外へ出てみるとよく分かる。無関係なフリをしても過剰に一体化しても、どちらにせよ、アジアの人たちとの対話が成り立たないし、死ぬまで戦争の影を引きずった祖父の心のことも見えてこない。何よりも、そういう欺瞞的なことをやっていると、自分の中で認知的不協和が発生する。

ウォルフレンへの反論を試みよう。彼が言う意味での"history"は元来日本には無いのではないのか?彼は、日本を統治するのは誰か特定の権力者ではなくてシステムだという主張をしているが、ならばそのシステムにとって都合の良いように書かれるのが、そもそも日本における「歴史」というものの役割だったのではないのか!?誓って言うが、国と市民の自己認識の基盤を整備するなんて意識は、洋の東西を問わず日本の学会には存在しないぞ?(存在してしまった場合は学会からエリミネート)

内田先生の『日本辺境論』はこの方向での、つまりシステムが統治している世界における国と国民の関係を探る試みだったのではないかと僕は思っている。欧米流の国民国家における"history"が市民の参加によってその総体である国家を変革していけるという前提に立っているならば、システムが統治する日本にはそれとはまったく異なる変革の原理があるのではないかという。

だが弱いのだ。日本のシステムはあまりにも強固で変化を拒み続けている。それに伴って僕のよなはみ出し者の認知的不協和はドンドン大きくなっていく。

今度ばかしは、今度の地震と原発事故と、それに伴って明らかになった日本の暗部は、これだけはウヤムヤに何もなかったことにしてはならない。"history"のやり方に学んで、何が起こったのかをハッキリさせねば、責任の所在を明確にせねばならない。

地震のみならず、システムのもたらす災厄まで天災であるフリなんぞ、これ以上できるものではない。



ったくワケのわからん話ばっかりしおってからに。

0 件のコメント:

コメントを投稿